はじめに
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”UFOが見える/見えないは何に起因するか”
我々は、この件を考える上でとても良好なサンプル的人材をメンバーに迎える幸運に恵まれた。
というのも、我々がUFOの実在を実証するために、人間の目でなかなか見えない状態であるという仮定の上に立ち、人間の元来持つ五感という観測機能の観測
補助観測機材として、ビデオカメラという手段を用いるようになってから、逆にそれを好感して傘下に集まってこようとした人々だったということである。
彼らは共通して、なぜ私に見えて、ほかの人に見えないのかという疑問を抱いていた。
自分たちに見えているものが、本当に存在するのかどうかを確かめたいという気持ちから来られているのである。
逆に我々は、彼らに対し(といっても今ではメンバーである)、我々の目では見えないほどの手段で飛んでいるようだから、補助機材を使って実証に努めている
のだという表現をした。
その前提となる現象は、主としてUFOが人の目にも留まらぬほどの高速飛行するという意味合いであった。例のスカイフィッシュ(そう知られる以前はすべて
UFOとしていた)がその好例であった。
ところが彼らの持っていた体験はそんなものではなかった。
UFOは天空にまさに滞空していて、彼らの目には輪郭も色も極彩色をしてしっかり捉えられているにもかかわらず、家族や友人を呼んで見せても反応がまった
くなく、逆に周囲に狂気ではないかという評価を与えてしまったというのである。
この話は我々がまったく予想しなかったことであった。UFOがステルス状態(透明とか、迷彩色を使うとか)になって飛ぶか、高速で人の目をくらますという
やり方でしか実現できないことと考えていたからである。
だが、UFOはけっこう堂々と出てきており、実情を調べていくうちに、実際にこのような経験をした人たちは噂に聞くだけでも非常にたくさんいて、多くは変
人扱いされて孤独に置かれ、不幸な場合には精神病院送りになっているというのだ。
こうした周囲の偏見が、UFO目撃事例を極端に減らしていることも推測できた。
我々は彼に(まだ半信半疑の気持ちがあったから)、目で見えるなら、必ず撮影機材で捉えることができるはずだから、やってみなさいと、いったんは半確信的
かつおためごかし的な引き取り方をさせたのである。
ところがその人物はほどなく、「ビデオカメラを使って空を見上げるようになってから、いったん興味を失ったためか中座していた目撃がまた始まった。ビデオ
にも撮れるようになった」と報告してきた。
彼は摩耶山の真南の市街地に住んでいて、そこから山上を撮るものだから、不思議なことにそれを皮切りに摩耶山上空のUFO撮影が我々を巻き込むように、何
かをテーマ(今回の場合はキリスト)にして集中しているかのように、シンクロ的に増加してしまったのである。
この現象は、目撃できる者とカメラマンが協力し合えば、効率の良い撮影が可能になるだけでなく、想像以上の現象さえ引き出せる可能性を示唆するものとして
好感できた。
このケースは、実は我々の経験においては二例目である。
それより一年前からはご存知坂本氏が、撮影機材は持たないものの、頻繁に目撃しているから場所をガイドできると加わっていた。
彼のガイドによって撮ったUFOの数はかなりに上る。多くは定点観測的にカメラ機材をセットし回しておいて、後で何が写っているか精査するというもの。ま
た数少ないが、彼があそこに出たという言葉を頼りに、目撃しながら撮影できたケースもあった。
またその質も、UFOと言っても差し支えないものであった。つまり、彼の目撃体験には本質的に偽りはなく、まさに彼が言うよう、六甲山はUFOの通り道と
いう実情が理解できた。
ただ、UFOは能力者のもとに好んで集まるのではないかの感はある。その辺の考察も後ほどしてみるが、彼が不在時に同等程度にも撮れるかどうかはまったく
疑わしいのである。だから、何においてもそうであろうが、目的のためには有能なガイドが必要になることは紛れもないことであろう。
そして彼も撮影機材を持ち、操作を理解して撮り始めてからは、目撃できるものは必ず撮れるという我々の考えた原則を実証してくれた。中でも最高傑作なの
が、満天の星の如くUFOが無数に現れたものを、茫然自失の中、目撃しながら終わりの部分だけでもビデオに収め得たことであろう。
さて、この坂本氏は我々の研究姿勢に対して非常に協力的で、普通なら言いたくもないようなプライベートな秘密も打ち明けてくれる人物であった。またそれ
を、この道の研究に役立つならと、公開も許可してくれた。
そうしたことから、今までの経過の中で彼に関する情報をメルマガや記事の中で公表もして、それをもとに様々な仮説を作ってきた経緯がある。
今回のUFO研究第二弾「見るものと見ないもの」は、そうした仮説の集大成と捉えていただきたい。
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(1)UFO目撃者の実態
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2004.2.18〜2.28に実施したサンプリング調査から |
UFOは従来、偶然に目撃されたり、撮影されたりしていました。
特に目撃は、けっこう多くの人がなさっていることが分かって参りました。
私が簡単なインタビューを期間を切って不特定多数を対象にしてみた結果、30人中11人に上ったのは驚きでした。むろん、相手がとっつきにくい感じの人に
は聞いておりません。気さくに話の相手になってくれる人で、嘘を言わないと見受けられる人だけに限りました。
サンプリングは日中私と会話したお客さんというわけですが、約3割の人が目撃体験らしきことをしていることが掴めたしだいです。
むろん、これだけではデーター不足なのは分かります。このデーターだけで日本さらに世界へと統計学的な推測を展開するわけには行きません。
偏った見方の元に聞き取りをしていること。地域的に見やすいこともありましょうし、後から考察するように、心がのんびりした性格的、地域的な下地というも
のもありうると思います。ま、とにかく、話してみればけっこう、目撃者は存在するということが判明したというわけです。
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過
去のメルマガ記事から
−12号−
(2003.10.31発行) |
UFO目撃は脳内のコンディションによる
(2003年9月7日の)フジテレビ系で放映の満天の星の子UFOの映像は、偶然撮れたのではなく、(坂本さんによって)目撃しながら撮られています。
写り込んでいる約3分間のビデオから20秒ほどが放映されました。
ところが、彼の撮影の前に20分以上の目撃がなされており、この間、坂本さんは放心状態で身動きできなかったのだそうです。
しかも、UFO群が空高く上昇していく際に、彼とその周りは虹色の光に包まれていたとのこと。
目撃ということ自体が、20分以上に及ぶというこの不思議さ。
(彼は自宅の3階屋上から撮っていたのですが)下界の誰も、空の異現象に気づいていませんでした。
(ビデオには下界における都会の喧騒と、ついには公明党の宣伝カーからの女性の声まで同時録音されています。この広い神戸の上空高く悠然と現れた白球型
UFOの大群に、どうかすれば気がつくはずではないのでしょうか)
このわけはいったい何なのか。
「見た」「見たことがない」の両極端は、UFO真贋論議の最大の原因でもあります。
誰でも簡単に「見る」ことができれば、UFOは確かに「ある」となりますでしょうし、発展的
に宇宙文明への積極交流の気運に繋がるかも知れません。
ところが、そうは問屋が卸しません。
ここには、大きな心理要因が潜在しているような気がします。
ところで、なぜ坂本さんがUFOを容易に目撃してしまうのか、極めつけの原理と考えられる事実が、彼に対するほんのちょっとした質問で分かってしまいまし
た。
ひとつは、UFOの通り道にご自宅があること。
なるほどと思います。
彼がUFO目撃プロット図で示すように、彼のご自宅はちょうど好位置です。
また、六甲山上から六甲アイランド方向へ吹き降ろすかのような通り道があるそうです。
「六甲おろし」とは、UFOをも吹き降ろす「気脈」なのかも知れません。
とにかく、自宅が通り道にあることは、「見る」ことに関しては、絶対に有利です。
窓を開ければ、港が見える、というふうにUFOが見えるというわけですね。
ご夫婦で指摘しあって、共に目撃することが多いそうです。
しかし、近所の方たちの多くが見ているわけではありません。
アンケートでもとれば、他所より比較的多い程度のことにはなるでしょうが。
もうひとつ、最も重要なことが分かりました。これが肝心なのです。
これは多分、「見る人」と「見ない人」を分別してしまうほどの理由でもあろうかと思います。
ではあまり勿体ぶらずに申しましょう。
坂本さんは、平常の覚醒時において、脳波の波形が「昏睡時」の波形をしているのだそうです。
つまり、デルタ波が支配的ということになりますね。
だが、これは極めて稀というわけではありません。
私は知り合いのお医者さんに聞きました。そのようなケースはあるのかと。
てんかんの発作時にそうなるそうです。しかし、持続的に3,4分がせいぜいだそうです。
また、人が熟睡しているとき、この波形が支配的になります。
しかし、坂本さんの場合は、起きているときにこうであり、計測開始から終わるまで(1時間は)持続しているというのです。
そんな人がいるの?
ネットで調べましたら、瞑想の熟達者ならありうるとのことです。
覚醒しながら、深い三昧境に入っているというわけですね。
このような人は、インドでは聖者とされ、物理法則を超えた奇跡が多く報告されています。
−−−−中略−−−−
ところが今度は、10月6日の関西テレビの放送をご覧になって、Yさんという神戸市在住のかたが加わってこられる見込みとなりました。
このかたは、また過去にものすごい数のUFOを目撃しておられるにもかかわらず、家族や知人に、あそこにUFOがいるだろうと指し示しても、彼以外には目
撃できなかったという不思議な経験の持ち主です。
しかも、上空100m以内までの範囲に、バスの二倍はあるかというUFOがたくさん出てきて滞空しているにもかかわらず、下界の誰も見えていないというの
です。これは坂本さんの体験にまったく似ています。
客観的に見れば、彼一人がホラを吹いているということで済ませられるかもしれません。
Yさんの場合は、誰に言っても見えない以上、ひとり孤立するような感じになって、存在を指摘すること自体に嫌気がさし、あえて目撃したいとも思わなくなっ
たそうです。
だから、たまに見たとしても、「ああまたか」といった感じで、誰にも言うことなく今にいたっているとか。
しかし、これではあまりにも気の毒です。
そのような人は、けっこうおられるのではないでしょうか。
しかし、坂本さんは、見ることのよくある人は、目撃しながら撮影できることを証明しました。
他の人の目に見えなくとも、ビデオテープには写るのです。
だから、(一般的に)UFOは来ているのに、見えていないだけということになります。
人間の目がいかに節穴か、とは申しません。
私は、現代人一般の観測能力が特化してしまっているのではないかと考えます。
そもそも、当会の武良さんは昔からそのことに気付き、UFOは見えなくても写ることを十何年にわたって確かめてきているのです。
ここにきて、今やっと分かったことではない。
それが今、(目撃体験を日常やっている人の参加で)短時日のうちに急速に理解されようとしている。
すばらしい時がやってきたという印象を深めますね。
(また、ビデオカメラという優れた観測のための新兵器が日夜高度化しつつあり、人の網膜で捉えられないような現実も捉えられるようになってきているようで
す)
Yさんにビデオカメラをお持ちかどうか聞きますと、昔のタイプのを持っておられるとのことでした。
それも、何かの風景を撮ったりとかの目的で買われたのでなく、患者さんの施術後の経過を録画しておくためだったとのことです。
ただし、シャッタースピードの調節機能はついていないとのこと。
それで良いのですと申しました。なぜなら、彼の前ではUFOはゆっくり飛ぶからです。
高速で飛ばれてしまうから、特別なカメラも要ることになるという道理ですね。
(この後、Yさんは良好な撮影成果を揚げただけではなく、目撃も再開するようになり、いっそう撮影に熱を入れるという執心ぶりとなりました)
Yさんのされているのは、何の施術かと言いますと、気功師さんで、それによって患者さんの体調を治すのだそうです。
ここにヒントがありましたね。そう。私も電話でお話する間に、すごく体が熱くなってくるのを感じ、十分ほどの電話の後、半日間いきいきしていました。
聞けば、遠隔治療もやっておられるとか。彼もやはり超能力者だったのです。
たぶん、脳波も一般の人とは異なっていると思うのですが、いかがでしょうね。
しかし、超能力者でなければUFOを目撃できないのかというと、そうではないように思います。
ごく普通の人でも、偶然UFOを見て、驚嘆したり、あれはそうじゃなかったのかな、と思ったりしているはずです。
どんな場合に見えたか。それが問題なのです。
その場合とは、山にいたとか、空を見ていたといったチャンスの多さのこともありましょうが、私はおそらくその人の脳内で、たまたまアルファ波やシーター波
がたくさん出ている状態ではなかったかと推測します。
このようなときとは、スポーツの後などの、ぼおっとしたときです。
あるいは、頭を休めるくつろぎのときなどではないでしょうか。
目を開けていても、その状態は起こり得ます。
ところがこのとき、大脳の中の活性領域は左脳から右脳に移ります。
そのとき、たまたまUFOが来ていれば、視覚で捉えた異質の信号を右脳の思考回路なら認識するということではないでしょうか。
左脳には異質の信号の処理機能が備わっていないというわけです。(あるいは異質の信号に対してのフィルター機能があるということかも)
むろん、これは奥人の仮説です。
逆に、どんな油断もないほどに気を張って生きている人は、頭の中で論理思考回路が休む間もなく働いています。
こういう人は目を瞑らない限り、ベーター波の支配的状態からおさらばすることはできません。
あるいは目を瞑っても、ベーター波状態という不眠症の人も中にはいるようです。これはもうほとんどビョーキですね。
よって、目を開けている時間中は、いくら見たくても見えないという道理になります。
私達は、ベーター波ストレス社会に生きています。
論理や打算などの左脳思考にウエイトを置くあまり、通常の覚醒時において、ベーター波という
幅の細かい脳内電流が励起する左脳領域の活性ばかり図ってきて、ちょうど近くのものばかり見ていると、目が近視になってしまうのと同様に、脳の一種の近視
眼的状態を作り出してしまっているのではないかと思います。
人間は特化するために生まれてきたのではありません。
オールラウンドな観測をしにやってきているはずだと思います。
昼夜別たず労働を強いるようなことのない、特化することを強要しないゆとりある良い社会になってほしいものです。
なお、私の場合も手前味噌ながら少し申しましょう。
私が三日月形UFOを見たのは、ほんとうにまどろんだ状態のときでした。
意識が対象に集中しているのに、心が拡大しているというか。そのようなときでした。
(また別の機会でしたが)不思議だったのは、(白球型)UFOが(ピラミッド瞑想の最中に)閉じている目の中に飛び込んできた経験をしたことでした。
このときは、まどろみの極致まで行っていました。
(それ以来)夢を見ている最中に何回かUFOは出てきました。(白球型UFOが複数個、星空を背景にして星ぼしを縫うようにしてすいすい泳いでいるので
す。これに近似した白球型UFO、8機のゆったり飛行が2003.4.27に撮れてしまいました!! やはり居たんだという二重の感激が得られたわけでし
た。公開はサイト上のみ)
いずれにしても、(この夢見のときは)アルファ波やシーター波が主体的だったはずです。
また、金縛り後、幽体離脱のような現象がかつてよく起きました。
ブーンという爆音が脳内に木霊し、金縛りになっても、慣れてくると、意識的に力を加えると、手や足、さらには体すらも脱出できます。
そのとき目を開けていると、部屋の中の光景を背景にして、シルエットのような半透明の手や五本の指とその輪郭といったものが、視野の周辺部でのみ捉えられ
るのです。
私だけでしょうか、真ん中では見えません。(目の観測機能か、あるいはその後の認識機能に、何らかの規則が設けられているのではないかと、この頃から思っ
ておりました)
私はゴムのように伸びる手を試し、天井近くにある電燈の笠の裏の埃の堆積や、壁を突き抜けて隣の部屋の床を触って、リアルな感触を確かめたりもしました。
このようなときに、金色のローマ数字がパラパラと天上から降ってくる光景を見たこともあります。
異界の有様を脳の半分で見ていたのかも知れません。
このときも、脳波は振幅の大きいものになっていたはずです。
同様に考えれば、異界と現実の両方を見る力を、人間は本来持ち合わせていたのではないかと思われます。
古代人が直感力に優れていたというのも、フレキシブルに脳波を変えて、異界の存在を容認していたからでしょう。
容認しなくなってから、異界への恐怖も消えた代わりに、別の感性が失われたというのが現代人のような気がします。
私とて覚醒時ベーター波人間ですから、異界を見るのはまどろんだとき以外にはありませんがね。
右脳と左脳が機能分担して存在していることが、人間の多様性を形作ることに寄与しているのだなあと思う昨今です。
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(2)UFO目撃の心理学的考察
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−13号−
(2003.12.8発行)
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左脳・社会脳が阻害するありのままの認識
これは人の認識に関するひとつの仮説です。
まだまだ発展途上であり、文章もまとまったものではありませんが、
奥人流不思議解釈の一環でメルマガに書かせていただきました。
人間の認識とはどういうものであるかの手がかりになれば幸いです。
[UFOを「見る」「見ない」の違いとは]
UFOを「見る」人と「見ない」人の違いはどこから生まれるのか、というテーマから今回の思索は始まりました。
前に坂本氏の目撃しながら撮ったというUFOデーターを見て、これほどの数のUFOが出ているなら、神戸市民のかなりの人が見ているだろうと期待しまし
た。
ところが、そのような話は一つとしてありませんでした。
では、彼が見たというのは嘘だったのか? そんなわけはありません。
UFOの写るビデオテープは先頭から六甲山系の上空に向けて、時折の山や周囲の景色に向きを変えるカメラアクションをまじえながら一連なりに撮り続けられ
ているものの中にあります。
CGか何かで映像を差し込んだなどということもありませんし、そのようなことを実現する技術も能力も持ち合わせておりません。
また、我々のクラブに参加されたYさんは、このUFOデーターの流された我々の出演番組を見て参加されるようになられた方ですが、昭和51年を中心に数に
して何十万機というUFOを見たと言われる人物です。
UFOがそれこそ満天に大量出現し、千変万化の湧出劇を繰り広げている様を、約三ヶ月に渡って目撃しておられたといいます。
しかし、家族や友人にその出現しているまさにその場を見せても、誰の目にも見えなかったというのです。
カメラという手段を思いつく前に、誰に言っても仕方ないという思いから、UFOを無視するようにしてしまわれたことが心残りのようで、分かってくれる人を
求めて、我々のクラブの門を叩かれたのでした。
なぜ、UFOが特定の人だけに見えて、その他の人に見えないのか。
この点をクリアーにしておくことは、我々のクラブにとっても、非常に重要なことです。
人間についてもう少し掘り下げることで、分かってくることはないのか、と思っていた矢先、坂本氏から決定的手がかりと思える話を聞いたわけでした。
それは、彼が通常時において、昏睡時の脳波波形をしているという話です。
過去五ヶ所の病院において脳波測定をされたそうで、どこにおいても、これで生活できているのかと驚嘆されたそうです。
ネットで調べましたら、デルタ波は瞑想の熟達者に見られる場合があるとのこと。
確かに彼は日々座禅の時間を設けておられます。
また、生来の行者であるとご自身言われており、超次元的な武勇伝に富んだ人でもあります。
また、Yさんは気功師さんです。この方の傍に座っただけで向いた側の半身が熱くなるとともに、肩こりが半分なくなってしまうほどでした。邪気とか霊気を見
ることもできるそうです。
また、私どもがお世話になっているHさんは、ご自身はこうした力をお持ちではないのですが、ご家族が霊の見える霊能資質をお持ちで、こうした環境にいると
どうしてもその謎を解明したいとお考えになるそうです。
ここに集まる者は、みなそれぞれに共通の疑問を抱えているとも言えそうです。
UFOと霊は我々は別物と捉えていますが、霊についても「見る」「見ない」という論議が昔からなされていましたから、トータル的に捉えられる概念が必要で
ある気がしました。
そこで私からひとつの仮説を出そうと思ったしだいです。
いま精神医学では脳の機能についてこんなことが分かっています。
言語、論理思考、分析などは左脳が得意とし、これが活性していると脳波はベータ波という細かい振幅のものが支配的になります。
一般的に活動時、覚醒時の人はこの波形のもとにあり、左脳が活躍しています。
いっぽう、空間認識、イメージ、芸術性、直感などは右脳の動きです。
この働きの活発なとき、アルファ波が支配的でありシータ波が混在します。
リラックスとているときや集中しているとき、目を瞑るときアルファ波がよく出ます。
いかに人間にとって、イメージ性豊かな状態にあるとき、くつろげるかが分かります。
深い瞑想状態でシータ波となりデルタ波が出てくるようになります。
坂本さんはちょうどこの状態で日常生活を送っておられるわけです。
こうしたことから、脳内電流の振幅に応じて、機能分化された脳内の部位が優位的に励起され、その他の部位が劣位的に従うといった関係があるように思われま
す。
[サバンの人の脳にみる人間本来の能力]
11月29日の毎日放送21時からの「人間の脳」のメカニズムの深奥に迫る番組「生命38億年スペシャル・人間とは何だ!?」を見て、さらに思いを巡らせ
てみました。
脳神経系に障害があることによって、逆に何らかの天才的な能力を発揮するという症状をさして「サバン症候群」と呼ぶそうです。
この番組では、脳梁が欠損しているキム・ピーク氏の才能の分析を通して、我々の脳内でどのようなことが行われているかが考察されていました。
彼は瞬時に任意の日付の曜日あての高速カレンダー計算をやってのけ、見るものすべてを間違わず脳の中に記憶してしまいます。
記憶の貯蔵力は少なくとも3才以降の事柄すべてにわたり、日常見聞きする事柄から、図書館規模の蔵書にいたるまでくまなく暗記し、しかも情報の取り出し時
にはそれら情報間の相互の関連が見事に取れているといいます。
また、事故によりそうなった後天性サバンの人の場合は、記憶の力とカレンダー計算する能力が独立したものであることを示しました。
しかも彼は曜日を「(勘で)言い当てる」という言い回しをしています。
キムさんのように脳梁が欠損すれば、右脳と左脳の連携がとれません。
ではキムさんのコンピューター顔負けの演算能力はいったいどこにあるかというと、番組では明確にされませんでしたが、私は直感の座、右脳だと思います。
サバンの人は解答をイメージとして頭の中に湧かせており、彼自身何らかの演算用の公式を頭の中にインプットしたわけではありません。
計算公式が古代からの遺伝によって先天的に原始的脳に築かれているという推測が学者さんから出されていましたが、これには疑問をもちました。
(なぜなら)イメージの湧き上がりとして情報が訪れる「遠隔透視」や「テレパシー」などは、脳内だけで説明できる話ではありません。
「遠隔透視」のように外界で起こることを肉体に備わった観測能力を使わずに観測する現象は、何か別のものを仮定せねばならないはずです。
私は、右脳あるいは原始的脳が仲介してさらにアクセスしている未知の何かがあると考えます。
右脳はインスピレーションの受信をもするので、直感脳と言い換えてもいいでしょう。
サバンの人は、直感的にイメージとして正解を得ているのです。
イメージとして湧いた情報が、正しい答えである可能性が高いとすれば、人間は余分な迂回をせずにすむことになります。
ただし、サバンの人のように純粋であり、余計な偏見をいだかなかったら、という条件がつくようです。その偏見とは何か?がこれから論ずる問題なのです。
何ゆえ記憶の質の良し悪しがあるのかについて、ある精神医学者は、サバンの人の脳は見たものを一点の曇りもない鏡のように捉えて記憶の貯蔵庫に運び込んで
いるのに対して、一般人は物事を幼い時から培ってきた「既成概念」を通して見るため(たとえばボールを直接に見ているのでなく、ボールという概念で見てい
るため)正確に記憶され難いという話をしておりました。
また記憶力がいいとは、正確に記憶したものを、すばやく取り出す力が優れていることです。
一般人はキムさんのようにはいきません。記憶と情報取り出しの能率が、脳梁を介しての左脳との情報交換を経て減殺されている可能性があるのです。
番組では、「損なわれている」とか「減殺されている」といった表現は使っていませんでした
が、記憶力の良し悪しが人の優劣をも決めている学歴社会の元においては、このように表現するのが適当でしょう。人はみな、これを解除する魔法の種をほし
がっているわけですから。
しかし、サバンの人の脳は、元来人間の脳とはこういうものだ(った)ということを示しています。
なぜ元来備わった記憶力がクリアーにならないのか。私はこう考えます。
右脳の認識が左脳の回路を経ることによって、培われた「概念」(常識など)によって分析され、取捨選択されて顕在意識の上に最終確認事項として認識されて
いるのではないかと。
これが記憶の錯誤になったりすると考えます。
元来、記憶とは、曇りなく記憶されれば、ちゃんと脳の中にしまいこまれます。
実際、催眠術では直接施術者が被験者の脳に直接働きかければ、その時刻に何があったかの細部まで思い出せることが知られています。
これは最初に左脳の認識のフィルターを通す以前に、どこかの脳か(右脳でしょう)がストレートに記憶していることを意味しています。
ところが、被験者が普通の状態では、思い出せないのです。
左脳という分析脳が記憶を取り出すときに、何か細工をしているわけです。
それを称して、「潜在意識」はけっこう何でも知っている。
潜在意識に働きかければ、みるみる記憶能力が開発されるなどと言っているわけです。
その意味は単純に、左脳の思考回路がいかに邪魔しているかを物語っているわけです。
ほんの隣にある自分の持っている記憶でさえ、認識できないようにしているのが、自分の中に同居している。
矛盾している気はしますが、これはこれなりに重要な機能であることは紛れもありません。
無駄な機能など、人間にはありはしないはずですから。
もっと言うならば、右脳で認識するものと左脳で認識する(認識したがる)ものは違っているのではないかと考えられます。
右脳がストレートな認識とそれによる記憶を促進するものなら、左脳は右脳の無闇な認識と、溢れるほどの記憶の流出を押さえ込もうとする機能があると考えら
れるからです。
ただし、どちらの認識も自己保存を基本にすえているため、対象の認識はひどい歪曲をされたりはしません。
決定的に違ってくるのは、既成概念の枠にまったくはまらない不可知の対象が現れたときです。
右脳であればストレートに捉えますが、解釈分析の左脳がそれを都合のいいように加工してしまうことがあるのです。
このとき、その人が右脳思考に偏っていれば、見たままに捉えます。
左脳思考に偏っていれば、見えないこともありうるというわけです。
UFOを「見る」「見ない」は、以上の考え方で説明できると思われます。
どうなるかと言いますと、視覚に入った情報は、視覚野でいったん像を結びます。
それをまず、右脳が処理して記憶にイメージのままに送り込みます。
ところが左脳に送った段階で、既成概念と照らし合わせて、認識するにまだしも妥当な部類のものは、多少のコメント付けをした上で、顕在意識の上に乗せてし
まいます。
得体の知れない動物が目の前を通過したなら、これは狸ではないかといった安心できるコメントを付けてです。こうした反応は、誰しも経験されていることで
しょう。
ところが、霊やUFOのように不可知のものが現れたときは、パニックを避けるためにあえて、顕在意識の上に上らないようにカットしてしまうというわけで
す。
だから、むしろ「見ない人」のほうが、けっこう特殊な能力を駆使していることになるのです。
坂本さんのUFO撮影テープは、彼のみが目撃し、見たままにカメラ機材によって捉え得たという事実を示しています。
ならば、どちらがおかしいか、という言い方をするなら、一般人のほうが、となるでしょう。
むろん他にも、UFOが彼だけに特別見せて撮らせたのだ、といった解釈もできるでしょう。
そのほうが簡便なように思えますが、ではUFOとは何ぞやの話となり、途方もない思索がまたぞろ必要となるでしょう。しかし、この時点では、この奇妙な話
も、心理学や精神医学のより一層の発達で解決される問題だと思うのです。
右脳が自在な認識脳とすれば、左脳は社会脳と言えそうです。
集団の中で折り合いをつけて暮らすには、老若、年功、地位序列、専門非専門などの組織に従う、掟に従うということが要求されます。
チームワークをとるために、元来あった能力をもわざと封じねばならなかったのでしょう。
人類の進化の過程を見るような気がします。
おそらく、脳幹は純粋な観測機能のみであったものが、右脳ができて観測する対象をどう認識するかという機能がついた。この段階までが、たぶん神話に言う人
類の黄金時代だったでしょう。
彼らが神の示された全地を見て愛でる役割を持った人々だったのです。
しかし、生めよ増やせよ地に満てよ。その結果、狭い全地に折り合いをつけて暮らす必要性が出てきて、神はもう一段階左脳を付け加えられた。
人々が集団の中で、限られた資源をどう分配するか。
このために適当なところで折り合いをつける社会脳が必要だったというわけです。
いま、私は神がなされたふうに書きましたが、長い何百万年の進化の結果そうなったとお考えになればいいでしょう。
現在では社会脳は、見えないもので証明されないものは認めない、という流れです。
これに従うことによって、人々は安泰に暮らしていると言えるのです。
[見れども見えずの妙技と、社会脳の醸す閉塞感]
既成概念なしにストレートに対象を捉えることができれば、記憶もスムーズに行き、脳の記憶の貯蔵庫にスムーズにアクセスできる。何と素晴らしく、また難し
いことでしょう。
かつて私も、中学の頃は無邪気で、ストレートに先生の話が耳に入っていました。
背筋を伸ばして、いい話だなあと先生の顔を注視して話を聞いていただけで、家で勉強などせずとも、友達とボール投げをしている間に、マンモス学年のトップ
クラスに行っていました。
記憶力だけで勝ち取った優秀高校への進学でした。
社会で必要になるはずの論理力はありません。今でも。
物憶えの天才とは、物事にレッテルを貼らないで記憶する人のこと。
サバンの人は、徹夜の苦学とか、連想記憶術とか、計算の公式の準備なしに、本来人間に備わっているコンピューター以上の能力の存在を証言しています。
そのスムーズな情報の流れを阻害する要因こそ、培われた「概念」であり、こうあらねばおかしいという意味づけのレッテルであり、個々人のそれぞれで少しず
つ異なる「心」だったことになります。
それは決して悪いものではありません。
ナワリズム的解釈によると、人はみな一人一人が、外界で生起する様々な出来事に関する「意味づけの一覧表」を持っているということです。
それは彼が未知の事態に直面したときに、とっさに認識を変えるための「合理化」の砦のようなものです。
もしこれがなかったなら、ただちに彼の脳はパニックを起こし、より重要な部分にダメージを被ってしまうことでしょう。
特にこの複雑化した社会に適応するには大事な機能と言えます。
その結果として、思い出したくない記憶を失ったり、直面した対象を自ら認識できる範疇のものに置き換えて認識するといった芸当まで行っているのです。
すべて、自己の安全を図るための脳の起こす防御機能です。
それが過度に複雑になってしまったのが、現代人の脳。
だから、そこにあるはずのUFOが見えないという不思議も生じる。
霊も同様のことと捉えることができます。昔になるほど、先祖霊を大切にしていました。
古代人は比較的簡単に見ることができていたのです。
今はアダムの原初の頃からかなりかけ離れてしまったとも言えます。
現代人は、複雑な人間関係、難い仕事やノルマの数々に、現代人の脳は「変換認識」(私の造語)をフル回転させています。つまり、様々な合理化の繰り返しで
す。
これは自らの純粋な心を偽ることでもあり、いよいよ人は純粋状態から離れていきます。
このようなことが多くなれば、この人の脳は、やがて最も自らを安定的に維持できる認識形態を作り上げ、それ以外のやり方を排除するようになっていきます。
それに社会的に成功したという経験が付加されれば、この生き方しかだめだと思うようになり、年をとるに従い頑固者、偏屈者になっていくわけです。
ところが、人それぞれに経験することが異なるため、それぞれに違う認識形態を作るわけですから、なかなか折り合いのつくものではありません。
心の多様性だけはどうにもならないからです。
自分の持つ認識形態を最善として、それぞれに違うはずの他に対して強制するようなことは、悲劇を生む元となります。
今の社会(世界)は、一律の既成概念を作り出し、画一化を懸命に進めているかのようです。
それは社会脳の活動の促進が目的なのでしょうが、今の世界はどう見ても、うまくいっているようには思えません。
相手が人間であるだけに無理だと思うのです。
そのような社会では、脳は反抗するか逃げ出すかのどちらかです。
生理学的な脳は素直ですから、創造性を封じられれば、大脳を持っている意味はないといじけ始めるでしょう。
また、脳はリラックスできないような状態を継続させられたら、自殺を企てるかもしれません。
といっても、欝とかボケとかいう形でです。
断眠実験をした例を見ましょう。睡眠中の夢を継続的に妨げただけで、白昼夢を見たり精神異常をきたしたりするといいます。
また、一日八時間の睡眠を取れない状態が一週間続けば、三日間断眠実験した脳と同レベルのぼんやり脳になるという実験結果も出ているそうです。
人は眠りを必要とします。目を瞑り、眠りにまさに就こうとするときに、彼の視覚の中には、色彩豊かな幾何学模様が形を失っていく様を見ます。
このときアルファ波からシータ波が支配的となり、右脳が活発化します。
そして夢見の状態となり、現代人はそこで初めて脳を遊ばせることになります。
つまり、現代人は、脳のストレス状態から駆け込むようにして得る安眠の状態の二極を行ったり来たりしているのです。
そのバランスが崩れたとき、自律神経失調とか精神神経症状なども起きてきます。
もしも、リラックスした脳の状態で仕事が続けられるなら、彼は睡眠など必要としないかもしれませんが、そのような仕事が得られないのも現代社会というもの
でしょう。
自殺者の増大、ボケや欝病や薬物アルコール依存の増大。キレやすさが原因の凶悪事件の増大。
人生がこれほど面白くなくなった時代もないとお考えの方も多いようです。
すべて、脳の禁断症状ともいえるものです。
かつてありし日の脳が怒っているのかもしれません。
人権とは、肉体の存続に関わるものだけではありません。
意識を持つ個としての尊重、そして自由な創造性の保証があってはじめて人権と言えるのです。
加えて、立場の違い、経験の違い、培った概念の違い、ひいては培った心の違いを互いに認め合うべきことを、新しい精神医学分野の研究は物語っているように
思います。
余談ばかりになってしまいましたが、私の論じようとしたことは、いたって簡単です。
1. 人はイメージを扱うストレート脳で記憶を正確に簡単に行うことができる。
2. ストレート脳は、見たものを見たままに捉えている。
3. それを顕在意識に安易に上らせない分析脳が存在する。それは社会脳とも言える。
4.
分析脳は、視覚で捉えたはずのものさえ、思考のフィルターをかけて、意識上に像を結ばせない作用をすることがある。それは脳にダメージを与えないための機
能である。
5. UFOや霊現象が一般人に見えないのは、分析脳のフィルターでカットしている可能性がある。
以上のようなことを、長々と論じました。
小さい子供は、神様や霊などをよく見たりします。
しかし、長じるにしたがって、その能力は失われていきます。
社会脳が成長して、ストレート脳を凌駕していくことによります。
こうしてその子は、普通の社会人となっていくわけです。
もったいないような気もしますが、仕方ありません。
しかし、稀に資質をそのまま残して長じる人がいることも事実です。
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(3)読者から寄せられた情報
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UFOを見る見ないについて
考察できる読者情報から
岡山県在住の読者”らみあ”さんの目撃事例とその考察 |
”らみあ”さんからの情報
今となっては誰に話しても信じてもらえない話です。
15年も前のことですので日付をはっきり覚えておりませんが、確か平成元年の1月中旬から2月下旬頃までの間だったと思います、まだ寒い時期の土曜日で天
気は晴れ、時間は午後9時〜10時頃のことです。
その日私は友人6名でカラオケに向かっている途中に、その内の私を含む計4名(男性2名 女性2名)で、走行中の車の中からUFOを目撃しました。
私たちは某国道バイパス側道を車2台で西進しており、1台目の車両の前座席に男性2名と(この2名は目撃していません)後部座席に女性2名、2台目の車両
に私(左助手席側)を含む男性2名が乗車しておりました。
とある交差点を南方向に左折しようとした際、前の車両に乗っていた女性の一人が左側の窓から体を乗り出すように、追従していた私たちに向かって手を振り何
かを叫んでいました。
私には彼女がただはしゃいでいるのだと思って見ていたのですが、運転をしていた友人は彼女が訴えていることがすぐ分かったらしく『あれなに?』と左上空を
指差しました。
何気なく私が見上げますと、高度にして2、30メートル程度の大変低い位置に、直径10メートルぐらいはあったと思いますが、赤い光をネオンサインのよう
に激しく点滅させる円型のUFOが浮かんでいました。
そのUFOはよく写真などにある『遥か彼方にぼんやり写っている』というような曖昧なものではなく、映画『未知との遭遇』に登場していた小型のUFOのよ
うな・・・はっきりとした、言ってみれば大変派手なUFOで、無数にある窓のような物が赤やオレンジに光っていました。
目を疑うというのはこういうことで、私は一瞬何が起こったのか判断できず全く言葉が出ませんでした。運転していた彼もしばらく言葉を失っていました。
それを目撃していた時間は2〜3秒で、車が交差点を左折中でしたので、すぐUFOは建物に隠れて見えなくなり、その建物を通り過ぎた時には空から跡形も無
く消えていました。
あまりにもはっきりとしたUFOだったので、いろいろな考えが頭を駆け巡り『何かの撮影だろうか?』とか『ヘリコプターを見まちがえたのだろうか?』と
か・・・2人ともなかなか言葉が出ず、車内には異様な雰囲気が漂っていました。
しばらく走ってようやく運転していた彼の方から『さっきの何?もしかしてUFO?』と言う言葉が出ました。私はその時やっと自分だけに見えたのではなかっ
たということがはっきりとして心底ホッとしました。
間もなくカラオケの駐車場に着いて、2人の女性達にも『さっきの見た?』『あれは何だったんだろう』と話かけましたが、彼女達も信じられないという固い表
情で『う〜ん』と首をかしげて口ごもっていたことをよく覚えています。
場所は市街地であり、しかも土曜の夜ですから人通りや交通量が大変多く、他に多数の目撃証言があって当然なのですが、それに関する報道等は全く無く、それ
が私の目撃を信じてもらえない最大の理由でした。
数日間はいろいろな人にこの目撃談を話したのですが笑われるだけで全く信じてはもらえず、その内私は誰にも話さなくなりました。
その後約15年が経過した昨年秋に、その時のメンバー4人がそろったことがあり、当時の思い出話で盛り上がりましたので、私がUFO目撃の時の話題を出し
ましたところ、なんと彼らは3人ともその時の記憶がないと言うのです。女性2人については完全に記憶が無く全く話になりませんでした。
もう一人の男性は『たしかにカラオケの駐車場で 「なんだったんだろう」 と話した事は覚えているけど、どうしてそういう会話をしたのか、その前のことが
どうしても思い出せない』と言っていました。彼も自分でどうして記憶が曖昧なのかが納得できない様子で、思い出そうと随分考え込んでいました。
私も彼らが宇宙人に『記憶を消された』などという飛躍した考えはもっていません。ただそうしますと私が目撃したあの鮮やかなUFOは何かの見間違いだった
のでしょうか?
どうしてあれだけのインパクトの強い経験を皆が忘れてしまって私だけが鮮明に覚えているのでしょうか?私は夢でも見ていたのでしょうか?
彼らが覚えてくれていないということにより、この私の話を証明するものが今は何もありません。これが悔しくてたまりません。
こういう例は他にもございますでしょうか?
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”らみあ”さんの情報に対する奥人のコメント |
らみあさんの最後に提示されているご質問からお答えします。
>こういう例は他にもございますでしょうか?
坂本さんと同時にUFOを目撃し、また拉致体験までしている従兄弟さんが、そのときの記憶の多くをなくされているとのことです。
また坂本さんご本人も、かつて憶えていたはずのものが、消えてしまっている場合があるとのことですが、記憶力に個人差があるようです。坂本さんは現実問題
においても、記憶力はいいのです。
次に、らみあさんの目撃体験に対する私のコメントをいたしましょう。
何度も通られている交差点であろうことから、町のネオンなどではないと考えます。
UFOが実際に出現していた時間がどれほどかによって、どれほどの数の目撃者が出てくるかが通常決まると思われるわけですが、この場合はらみあさんご一行
自体が交差点を曲がり、建物に物体が隠れて次に出てくる時にはその場所に存在しなかった(消えてしまった)というわけで、出現時間が極めて短いように思い
ます。
しかし、見た人は個別にいくらもいたかも知れません。
強烈な出現の仕方なので、印象も特に強いものがあったと思われますから、記憶に残らないのが不思議な感じもします。
しかし、ここで奥人流の仮説を持ち出させていただきましょう。
人はあまりに不可解なものは、瞬間的にしろ、認識しないように脳が防衛機能すると考えます。
個別の場合、その認識に他から修辞してくれるようなものがない場合、彼自身の識域下に強制的にいれてしまうというわけです。
こうして、今見たはずのものは「ない」と認識するわけです。
右のストレート脳は見ています。しかし、左の社会脳が認識することを許さないのです。
ところが、らみあさんたちの場合のように、まず一人が見て騒ぎ、それをのこる三人で見て、情報の照合を取りながら騒いでいるわけです。
確認を取り合い騒ぐという行為の周辺環境の記憶は、現実的なものですから、なかなか消えるものではありません。関連させて不可知の認識情報も長い間記憶さ
れていたと思われます。
ところが、のこるお三方の場合、どれほどかの年月のうちに、それぞれが記憶しておくべきではない情報として、周辺情報も巻き込んで識域下に押し込んでし
まったと考えられます。
それ以降も同じ話題で電話しあうなど、何度も記憶の取り出しをかけていれば、残されていた記憶だったかもしれません。
しかし、社会脳は現実生活に不都合な不可知情報をどんどん淘汰していると考えられます。こうして、かつてあったはずの記憶も意識に上ってこなくなる。ちょ
うど嫌悪すべき虐待体験を受けた人が、その間の記憶をなくすに等しいことが起きていると考えられるのです。
ただ、なぜらみあさんだけが記憶を残していたのかについては、らみあさんがこうした不思議現象に対して、ある程度許容している部分があったためだと思われ
ます。つまり、UFOに興味があったり、不思議好きという下地があるのではないでしょうか。
社会脳に、こんなことがあってもおかしくないと許容を持たせていれば、記憶をすべて閉じ込めてしまうことはないと思われます。
また、らみあさんが、他が忘れても自分だけは忘れるものかという意志で記憶の思い出しを図っていることも、ひとつの理由になるでしょう。
宇宙人に拉致されて、記憶を消されて返されるという話をよく聞きます。
実は、坂本さん夫妻も私もそうした経験があるようなのです。最近になって、坂本さんは許容の枠を広げているためか、どんどん思い出されています。今になっ
てもその心構え如何によるわけか、思い出せるようなのです。私は記憶の断片を抱えただけで苦しんでいますが。
こうしたことを考えても、宇宙人が何か操作して記憶を消したというより、体験者本人が自らの意志で記憶を消していることも考え併せる必要があるのではない
かと思います。
催眠術の逆行催眠は、ストレート脳から入った記憶に直接働きかけます。
分析脳の出る幕のない時を作りながら記憶を取り出すとき、ちょうどサバン症の人のように鮮明な記憶が蘇るというわけです。
しかし、催眠術の最中にも、嫌悪の感情を露わにしながら思い出し難そうな表情を被験者がとることが多いことを見ると、やはり社会脳が情報を取り出させまい
とがんばっているわけだと思います。
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編集後記 |
大体の論じたい点は、既刊のメルマガ13号の記事に集約しております。
作業時間がほとんどなく、集大成のような大それたことはなかなか叶いませんでした。
過去の関連記事を連記して紹介するに留め、またなお新しいことが分かりましたら追加してお届けすることとします。
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